情報の氾濫と、正しい判断をする力

承認欲求に溺れる歯科業界――評価という幻影に踊らされる現場
SNSが歯科医療を変えた今こそ、本当に価値のある治療とは何かを問い直すべとき。

歯科業界は、いつから「市場の評価」を過剰に気にするようになったのでしょうか。本来は、歯科医師の判断基準は科学的根拠に基づく診療技術と経験にあるべきです。しかし、SNSや口コミサイトの普及により、その軸は急速に揺らぎ始めています。

情報の流通速度が加速し、歯科医療に対する評価の基準は、かつての「医療的適切性」から「患者満足度」へとすり替わってしまいました。治療の正当性よりも、「利便性」「おしゃれ」「感じが良い」といった表面的な価値が求められ、それが市場での成功を決める指標になりつつあります。まるでSNSの「バズる」現象と同じ構造です。


歯科医院経営の落とし穴――「評価主義」に振り回される医療者

この傾向を加速させたのは、患者だけではありません。むしろ、歯科医師自身が「評価されること」に快楽を見出し始めたことこそが問題の本質です。検索アルゴリズムが、患者の関心に合わせた情報を優先的に表示することで、異論や慎重な議論は影を潜めます。「最新技術」「革新的治療」と称されるものがもてはやされ、それを導入しない歯科医院は遅れているかのような錯覚を抱かされます。


短期的なトレンドより、本当に求められる歯科医療とは?

しかし、流行の治療法や見た目の改善を優先するこの風潮は、歯科医療の根本を揺るがしています。本来、歯科医療は治療よりも 予防 にこそ価値があるはずです。それにもかかわらず、派手な広告戦略や「すぐに効果が見える」施術が持てはやされ、MTM(メディカルトリートメント) のような地道なリスク評価に基づいた診療システムは注目されにくくなっています。歯周病管理やリスクコントロールこそが、長期的に患者の健康を守る最善の方法であるにもかかわらず、「即効性」や「劇的なビフォーアフター」が求められる市場の中で、その重要性はかすんでしまっています。

SNS上では、「ホワイトニングですぐに歯が白くなる」「たった○回の治療で歯並び改善」などの即効的な成果を強調する投稿が溢れています。それに対し、「MTM による歯周病の進行抑制と治療」「定期メインテナンスによる健康維持」といった地道な努力は、どうしても見劣りしてしまいます。患者が「目に見える変化」にばかり意識を向けることで、歯科医療の本来の目的である 「生涯にわたる口腔の健康維持」 という視点が失われつつあるのではないでしょうか。


予防歯科の価値を再認識する時代へ

かつて、歯科医療の中心は「治す」ことにありました。しかし、時代とともに予防の重要性が認識され、「治療中心」から「健康管理」へとシフトしてきました。しかし今、SNSによる評価競争の中で、本来の歯科医療が再び「見た目の変化」や「即効性」といった短期的な満足に振り回されているのです。

これは、治療中心の時代に逆戻りしているのと同じではないでしょうか。むしろ、現代の歯科業界は、評価や市場競争を優先するあまり、せっかく築き上げてきた「予防歯科」の本質を見失いかけています。

今こそ、「痛くなったら治す」ではなく、「痛くならないように管理する」という本質的な医療の価値を再確認すべき時ではないでしょうか。技術の進化や情報の広がりが、歯科医療を単なる消費活動に変えてしまわないよう、歯科医師自身が判断基準を取り戻す必要があります。


情報の氾濫と、正しい判断をする力

新型コロナウイルスの流行期には、SNSを通じて「この歯磨き粉がウイルスを防ぐ」といった怪しげな情報が拡散されました。さらには、感染対策の是非をめぐって歯科医師の間でも激しい議論が繰り広げられました。これは、情報過多の時代において「何が正しいか」を見極める力が鈍っていることの証左ではないでしょうか。

この状況は、まさに明治時代の文明開化と重なります。当時、新技術の流入に戸惑う民衆を前に、福沢諭吉は「民情一新」の中でこう述べました。

「結局、我社会は、この変化とともに進むしかない」

しかし、それは単なる技術の受容を意味しません。むしろ、無批判に流されるのではなく、新技術が本当に価値あるものかを吟味し、適切に活用することが求められているのではないでしょうか。


歯科医院経営の未来――本質的な価値を見極めるために

今、歯科業界は大きな転換点にあります。SNSの評価に一喜一憂し、患者の「いいね!」や高評価を追い求めるのか、それとも、医療者としての倫理を守り、本当に良い治療を提供することに徹するのか。

SNSが歯科医療を変えた今こそ、本当に価値のある治療とは何かを問い直すべき時です。

―― それは、派手な治療ではなく、予防と継続的なケアの重要性を再認識すること。 承認や評価を他人に委ねない「弱い自立」ではないでしょうか。