「予防歯科」表記はダメだが「予防治療」ならば問題ない。首都圏の地域医療機関冊子へ出稿する歯科医院への行政指導です。「予防・治療」では、と問い返すと、「・」は入らない「予防治療」です、との見解を聞いて、「なんだかな」とは思わずにはいられない返答でした。つまり「予防歯科」という存在は認められないが「予防治療」という行為は認めることができるということになり、存在がないのに行為があるという不思議な話になります。釈然としないこの理屈を突き詰めていくと、1960年当時の社会的要請から、疫学の重要性を二の次にして官主導で作られた医療制度という強固な岩盤に突き当たります。
日本で治療中心の医療体制が強固な理由のもう一つは、医療者も患者も医療保険制度に甘えていることにあります。まず何よりも、医療者の診療報酬が出来高払いで、より多く治療を施した方が儲かる仕組みに問題があります。支払いの大部分は医療保険で賄われるため、患者の懐も痛めない。それゆえ、過剰治療になりがちで、予防を標榜しながらもその実態が形式的になることは容易に想像がつきます。患者側にも問題があります。患者は医療費のごく一部を負担するだけでほとんどの治療を受けることができるのですから、実際どれだけの治療費がかかっているのかという意識が希薄になります。もちろん貧富の差に関係なく国民が医療を受けられる制度自体は素晴らしいのですが、それを差し引いても医者も患者も馴れ合ってしまうこの制度で、商業化した医療機関とお客様化した患者にコンプライアンスを求めるのは無理があるように思います。
行政が予防治療の表記を「よし」とするのは、SPTによる予防のガイドラインができたことにも関係しているのではないでしょうか。この制度によって予防治療と予防管理に線引きがされたこと、さらに歯冠修復、欠損補綴から派生した非医療的な保険制度から疫学ベースの医療的保険制度に舵を切ったことは評価されて然るべきです。しかしそれでも、この制度によって予防歯科のモヤモヤを解消することをできないのは何故でしょう。むしろ予防を標榜する歯科医院にとっては、数ヶ月毎に初診に戻す古典的な予防管理手順に加え、SPTという保険財政の蛇口が増え、新たなモヤモヤが加わった感じさえします。さらに困ったことに、予防治療はSPTという印籠を与えられたため、患者と共に健康を守る一体感に支えられて違反や不正に対して医療者も患者も無自覚になる傾向も否めません。「なんだかな」と言いたくなる制度にならないことを願います。
高度成長期前後につくられた「なんだかな」と言いたくなる制度は他業界にも山のようにあります。昨秋発覚して全容が明らかになりつつある日産自動車やSUBARUでの無資格検査問題もその一つです。この自動車メーカーで起きた不正は、歯科の予防制度を考えるにはとても示唆的です。先に挙げた自動車メーカーの不正に対して国土交通省は「適切な完成検査を確保するためのタスクフォース」を設立したと発表しましたが、これに対して自動車業界からは「制度自体が古いので、現状の作業にあっていない」といった声も出ています。この事件は、企業の品質管理体制に批判が集中しましたが、現状行われていることは、警音器の聴音検査、ハンマーによる取り付けの緩みや亀裂の打音検査、窓ガラスの視認検査といった60年以上前に定められた検査方法です。期せずして、歯科の基本検査と変わりないこの検査方法は、各工程で完成度が高くなった自動車産業の現場では意味のない検査と認識されていたようです。私の知る限りでの判断では、この検査不正の本質は、メーカーのコンプライアンスにあるのではなく、時代遅れとなった古い規制を維持しようとするばかりで、この検査体制自体が必要か否か踏み込もうとしない監督官庁と自動車産業の体質にあるように思います。翻って歯科の基本検査の在り方とその算定も画像診断等の技術が進んだ現在、医療者の経験と感覚に任せていていいはずがない、と思うのは早計でしょうか。
歯科も自動車産業も「コンプライアンス」が徹底された現代では、何か問題が表面化すると、事実の中身や背景、原因などよりも、法令や制度に違反したかどうかが問題にされる風潮があり、違反者や不正者は、マスコミを筆頭に世の中から袋叩きにされ、世の中は事の本質を突き詰めようとしない思考停止に陥ります。歯科の予防表記やSPTガイドラインに対する批判も同じです。そもそも法令や規制は、何らかの社会的要請に応えるために定められるものであり、内容が社会の実情に適合し、医療者や患者がそれを遵守する意識が定着していれば、その機能が十分に発揮されると思います。しかし、歯科における予防制度は、社会的要請や歯科医師と患者の意識に合致しているのか疑問です。適合していない法令や規制には、歯科に限らず人が準じなくなるのは世の中の常です。
予防歯科のモヤモヤを晴らすのは、鬼平のような技官ではなく、歯科医師であって欲しいものです。