年末年始のご挨拶
時間がない!車を諦めて電車に乗る。グローバリズムの波のように老幼婦女子が車内に押し寄せてきて悠然と座席を占領する。その傍で突っ立っている自分に、電車の座席と人生の座席がイコールになったような落胆を覚える。さらに婦女子が化粧まで始める始末、これって日本のフェミニズム?それならば紳士の作法とばかりに、「鏡をお持ちしましょうか」と申し出るギャグを想像しながら、ドタキャンにも患者様とばかりに応じる青山のホワイトニング屋のジギャク(自虐)を連想する。世の中も歯科も秩序が『混乱』している。
雨降りの運転に限って、ガス欠寸前。給油したくともGSが見つからない。平成の始まりに5万軒余りのGSが、平成の終わりに3万軒あまりに減るとは、カルロス・ゴーンのリバイバルプランも想定していなかったのでは。やっとの思いで歯科医院に着くと、またも人手不足の話題。生産年齢人口は過去20年間で1100万人減り、これから10年で720万人も減少する、相談されても人手不足の解決方法はあるはずもない。歯科衛生士学校は軒並み定員割れ、歯科医院軒数までも減少に転じる平成の幕切れを、よもや厚労省も文科省も考えていたはずはない。世の中は縮み、歯科界も縮み、高齢者は身の丈も縮む。それでも人はしあわせを求めて高齢化していく。どんな人でも原初的な食べるしあわせを手放すことはない。高齢社会を憂うことは、政府のトリックに違いない。団塊世代がいなくなった時、高齢に偏った人口分布は解消されているからだ。「しあわせというのは何だろう。しあわせというのも年老いるものだろうか?」寺山修司の言葉は高齢社会の今を生きるのに示唆的だ。
平成の始めから、マクロ環境の『縮み』は明らかだった。変化を疎い先送りにしてきたツケを取り立てられる大晦日がやってくる。まずいまずいと思いながら、元号が変わる時節を前に、本当にまずくなった。サイズの合わない靴を履きながらなんとか歩いてきたけれど、このままでは歩けなくなる。これ以上歩けなくなった時、サントーニよりもサルバトーレ・フェラガモよりもはるかに上等な靴の用意がなくては、『The100-Year Life』の社会とはいえまい。おしゃれで履き心地が良い『ユルスナールの靴』を履いて、「哲学」を感じながら遠くまで歩いていきたい。
「きっちりと足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。行きたいところ、行くべきところにじぶんが行っていないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、すべて、じぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と。」
引用:須賀敦子著『ユルスナールの靴』より
ここでの靴は哲学を意味することは言うまでもない。
自分に合う靴は必ずある。むしろあるからこそ私たちは生きている。そんな靴を見つけた歯科医師が人をしあわせにする。不潔で不健康な口腔でなんとか食べている人が、しあわせになれるはずがない。健康な口腔で食べ物を噛みしめたとき、人は裸足で大地を踏みしめたときのしあわせを感じるはずだ。このしあわせを感じさせられるのは『ユルスナールの靴』を履いた歯科医師に違いない。
『ユルスナールの靴』を履いた歯科医師を見つけよう!社会に送り出そう!
平成最後の12月、みなさまお疲れさまでした。
どうぞ楽しい年末年始をお過ごしください。
平成30年12月
クレセル株式会社 代表取締役 伊藤日出男